LOGIN黒い鎖から流れ込んできたのは、単なる魔力ではなかった。
捕らえよ、奪え、逆らう者を傷つけろという命令が、怒鳴り声のように頭の中へ押し寄せてくる。言葉を聞いているというより、誰かの憎しみを無理やり脳へ流し込まれているような感覚で、腕に絡みついた鎖を通じて体の内側まで冷たくなっていった。
『生命の不足を確認した。改変の対価として、術者の記憶、感情、存在情報を徴収する』
「そんな条件は、最初に言ってほしかったな。血が必要だとは聞こえたけれど、記憶まで持っていくなんて話は聞いていない」
『遥人、誰と話している。それが鎖の声なのか』
「そうらしい。交渉する気はなさそうだけど、少なくとも、黙って命を奪われるよりは相手の要求が分かるだけましだ」
『ましなものか。今すぐ手を離せと言っているのだ。鎖を外す方法が分かったのなら、帝国へ戻った後で術者を連れてくればよい』
「その帝国へ戻る前に、あなたの命が尽きる。さっきから鎖が吸い上げる力が増えているし、俺の血へ反応したことで、向こう側にも異常を知られたはずだ。王国軍がここへ来るまで、それほど時間はない」
鎖の力が流れ込む先は、俺が追い出された国境砦だった。あれだけ大がかりな魔力の流れを、砦にいる術者たちが監視していないはずはない。俺が鎖の命令を書き換えたと気づけば、グレイヴ侯爵は兵を差し向けてくるだろう。
この白銀竜を奪い返すためなのか、口封じのためなのかは分からないが、どちらにしても俺たちにとってよい話ではなかった。
『それなら、なおさらおまえだけでも逃げろ。私がここで暴れれば、兵たちの注意を引きつけることくらいはできる』
「暴れれば、その瞬間に鎖があなたの首を折る。俺を逃がしたいなら、もう少し現実的な方法を考えてくれ」
『おまえを助けるために死ぬのなら、少なくとも私自身が選んだ死に方だ』
「自分の命を何だと思っているんだ」
『それは先ほど、私がおまえに言った言葉だ!』
白銀竜の苛立った咆哮が岩山へ反響した。
状況さえ違えば、少し笑ってしまったかもしれない。出会ってからそれほど時間も経っていないのに、俺たちは互いの命を粗末に扱うなと言い合い、相手の言うことだけは聞こうとしない。
人間同士でも分かり合えなかった俺が、敵国の竜と似た者同士だと分かったところで、あまりうれしくはなかった。
「だったら、お互いに死ななくて済む方法を探そう。俺が鎖の命令を書き換えるから、あなたは抵抗せずに待っていてくれ」
『できるのか』
「できると言い切るほど無責任にはなれない。でも、少なくとも、何もせずに待っているよりは可能性がある」
『失敗すれば、おまえの命まで鎖に奪われるのだぞ』
「失敗したときの話は、成功する方法を考えた後にしよう。心配してくれるのはありがたいけれど、今は鎖の声を聞くことに集中したい」
『誰が心配などしている。私の目の前で勝手に死なれれば、後味が悪いだけだ』
口から発せられた声は相変わらず冷たかったが、魂から伝わってきたのは、『死なないでくれ』という悲痛な願いだった。
俺はそれを聞かなかったことにして、黒い鎖へ意識を集中させた。
鎖に刻まれている命令は、大きく分ければ三つだった。
一つ目は、対象となった竜の肉体を拘束すること。二つ目は、抵抗に応じて痛みを与え、魔力と生命力を奪うこと。そして三つ目は、奪った力を人間王国の国境砦へ送り続けることだった。
三つすべてを書き換えようとすれば、膨大な対価を要求される。俺一人の血や生命力では足りない。
それならば、命令を消すのではなく、解釈を変えればよい。
現代の言葉でも、主語や目的語の違いによって意味が逆転することがある。始原語はさらに複雑で、一つの言葉が置かれた位置や話し手の意志によって、命令を受ける相手まで変化する。
拘束する対象を白銀竜から外せば、少なくとも彼女だけは自由になる。
「まずは、『翼ある災いを地へ伏せよ』という部分を書き換える。この命令でいう災いとは、あなたのことだ。けれど、鎖自身が災いだと認識されるように意味をつなぎ直せば、命令の対象を入れ替えられる」
『鎖に、自らを拘束させるというのか』
「そういうことになる。もっとも、魔法が自分を対象として認識してくれるかは分からない。ずいぶんと性格の悪い術式だから、素直に命令を聞くとは思えないけどな」
『魔法に性格などあるものか』
「これだけ長く声を聞かされていると、少なくとも俺には、ずいぶん意地の悪い相手に思える」
俺は鎖から聞こえてくる文章の流れを、一つずつ自分の中で組み替えていった。
翼ある災いを捕らえよ。
災いとは何か。
竜である。
なぜ竜であると定義されるのか。
鎖を作った術者が、竜を災いと定めたからである。
そこへ別の意味を差し込み、定義そのものを崩す。
罪なき者の命を奪うものこそ、災いである。
この白銀竜が罪人であるという証明は、術式のどこにも存在しない。鎖は対象が竜族であるという理由だけで罪を決め、生命力を奪っていた。
ならば、罪なき者を苦しめている鎖自身こそ、この命令が拘束するべき災いだ。
『不正な解釈を検出した。既存命令を維持する』
「不正かどうかを決めるのは、あなたじゃない。始原語に刻まれた本来の規則だ。術者の都合で罪人を決めることが許されるなら、そもそも言葉を使う必要がない。力だけで縛ればいいだろう」
『命令への抵抗を確認した。対価の徴収を開始する』
指先に絡んでいた鎖が手首まで伸び、皮膚の下から血を吸い上げ始めた。腕の感覚が急速に失われ、視界の端が暗くなる。
それだけではない。鎖は俺の記憶にまで触れ、意味を理解するために必要なものを奪おうとしていた。
日本の街並み、狭い部屋の窓から見えた夕焼け、駅前でいつも買っていた安い弁当、仕事帰りに立ち寄った書店の匂い。異世界へ召喚されてから、故郷を思い出すことは少なくなっていた。それでも、それらは俺が如月遥人であることを支える、大切な記憶だった。
『遥人、顔色が変わっている。何を奪われているのだ』
「少し、昔のことを思い出していただけだ。あまり楽しい人生でもなかったから、取られて困るものは多くない」
『そのような嘘が私に通じると思うな。おまえは痛みを隠すときほど、余計な冗談を口にする』
「出会ったばかりの相手に、よく分かったな」
『おまえの言動が分かりやすすぎるのだ。いいから止めろ。おまえの過去を知らぬ私でさえ、それを奪われてよいものではないと分かる』
「止め方が分かれば、とっくに止めている。鎖が俺の血を気に入ったらしくて、もう離してくれないんだ」
『なぜ、それをもっと早く言わぬ!』
白銀竜が体を起こそうとし、六本の鎖が同時に締まった。首と翼に深く食い込んだ棘から青い血が噴き出し、白い雪へ鮮やかな色を広げていく。
「動くなと言っただろう。あなたが魔力を使えば、その分まで鎖に吸われる」
『私に黙って、おまえ一人だけで対価を支払うつもりだったのか。人間はいつも、そのように勝手なことをするのか』
「少なくとも、俺は昔からそうらしい。後で頼めばよかったと言われることは多いけれど、頼んだところで断られるのが怖いから、最初から一人でやったほうが楽なんだ」
『楽なものか。おまえは、断られて傷つく代わりに、一人で傷つくことを選んでいるだけではないか』
痛いところを突かれた。
相手の本音が聞こえる俺よりも、彼女のほうが俺のことを正確に理解しているのではないかと思えてくる。
「それでも、今は俺がやるしかない。あなたの魔力を使えば、鎖へ流れる力が増えるだけだ」
『私の魔力を、鎖を破壊するために使う必要はない。おまえが言葉を扱うなら、私はその言葉を守ればよい』
「どういう意味だ」
『私の魂の声がおまえに届くのなら、おまえの言葉も私の魂へ届いているはずだ。私が命令を書き換えることはできずとも、おまえが選んだ意味を信じ、その解釈を受け入れることはできる。始原語は、術者一人の意志だけで完成するものではない。言葉を発する者と、受け取る者の意思が重なったとき、初めて世界へ届く』
竜族でさえ始原語を扱えないと言っていたが、その性質については人間よりも深く理解しているらしい。
俺が一方的に命令を書き換えようとすれば、鎖は不正な干渉として拒絶する。しかし、拘束されている彼女自身が俺の解釈を受け入れれば、言葉は新たな意味として成立するかもしれない。
「本当にできるのか。失敗すれば、今より強く魔力を吸われる可能性がある」
『先ほど、自分で言ったではないか。失敗したときの話は、成功する方法を考えた後にしろと』
「都合のいいときだけ、俺の言葉を使わないでくれ」
『おまえも、都合のよい魂の声だけ聞いているだろう。お互いさまだ』
白銀竜は苦痛をこらえながら、青銀の瞳で俺を真っすぐに見つめた。
『私の真名までは明かせぬ。しかし、この魂と言葉に誓おう。人間、如月遥人。私は、おまえが示す言葉を信じる。私を縛る鎖ではなく、私を救おうとするおまえの意志を受け入れる』
その声に重なる魂の言葉には、疑いや偽りが一つもなかった。
『怖い。それでも、遥人を一人で死なせるよりは、二人で賭けたほうがよい』
「二人で死ぬ選択肢は認めない。成功して、一緒にここから出る。それでいいな」
『生意気な男だ。だが、今だけは、その言葉に従ってやる』
白銀竜の瞳が閉じられ、全身を覆っていた銀色の鱗が淡い光を放った。鎖に抵抗するためではなく、俺の声を受け入れるために、彼女が自らの魂を開いている。
人間と竜族。敵対する二つの種族の言葉が、黒い鎖を介して初めて重なった。
俺は鎖へ奪われかけていた意識を引き戻し、改めて始原語の命令へ自分の解釈を押し込んだ。
「罪なき翼を捕らえる鎖よ。おまえこそ、地へ伏せるべき災いである。奪った力を本来の持ち主へ返し、自らを縛れ」
『既存命令と相反する解釈を検出した。術式の維持を優先する』
「維持を望んでいるのは、鎖を作った人間だけだ。拘束されている者は、その命令を受け入れていない」
『対象は竜族であり、意思の確認を必要としない』
「それが間違いだと言っている。言葉は、伝える相手がいて初めて意味を持つ。相手の意思を認めない命令は、言葉じゃない。ただの暴力だ」
鎖の文字が激しく明滅し、俺の腕へ食い込んでいた黒い輪がさらに強く締まった。
意識が途切れそうになる。
そのとき、白銀竜の魂の声が、冷え切った体の奥まで届いた。
『私は災いではない。私は、誰かに命を奪われるために生まれたのではない。遥人、おまえの言葉を信じる。だから、おまえも、自分の言葉を最後まで信じろ』
怜央からは、おまえの翻訳が正しいか判断できないと言われた。
グレイヴ侯爵からは、王国の歴史を否定する妄言だと決めつけられた。
今、出会ったばかりの敵国の竜だけが、俺の言葉を信じると言っている。
それが妙に可笑しく、同時に、泣きたくなるほどありがたかった。
「命令を改めろ。捕らえるのではなく解き放ち、奪うのではなく返せ。翼ある者を地へ伏せるのではなく、再び空へ帰せ!」
俺の血を吸っていた鎖が、大きく震えた。
六本の杭に刻まれた文字が一つずつ裏返り、赤黒かった光が銀色へ変わっていく。地中を通じて砦へ送られていた魔力の流れが止まり、今度は逆に、奪われた力が白銀竜の体へ戻り始めた。
『命令の矛盾を確認。拘束対象を再定義する』
鎖が白銀竜から離れ、自らの輪へ巻きついていく。
首、翼、四肢を締めつけていた黒い輪が外れるたび、銀色の鱗に刻まれた傷から光があふれた。最後の一本が解けた瞬間、白銀竜は大きく翼を広げた。
吹雪が弾き飛ばされ、雲の切れ間から淡い月光が差し込む。
美しいと思った。
恐ろしいとか、敵国の竜だとか、そのようなことを考える余裕もなく、ただ目の前の光景に見入った。
しかし、鎖から力を取り戻した白銀竜とは反対に、俺の体からは一気に力が抜けていった。鎖へ絡まれていた右腕が自由になったものの、指先を動かす感覚さえ残っていない。
「これで、約束どおり運んでもらえそうだな。できれば、温かい場所がいい」
『待て、遥人。今、そちらへ行く』
「そんなに急がなくていい。少し、眠いだけだから……」
『眠るな。おまえは自分がどれほど血を失ったか分かっているのか。遥人、私の声を聞け!』
近づいてくる白銀の翼を最後に、俺の意識は途切れた。
◇
目を覚ましたとき、最初に感じたのは火の温かさだった。
岩山の中にできた洞窟らしく、天井から垂れた細い氷柱が焚き火の光を反射している。俺の体には乾いた毛布のような布がかけられ、血を吸われた右腕には、銀色の布が丁寧に巻かれていた。
どうやら、生きているらしい。
次に気づいたのは、自分が外套を着ていないことだった。
「気がついたか」
すぐ近くから、聞き覚えのある声がした。
体を起こそうとした瞬間、喉元へ冷たいものが触れる。青白い氷から作られた細身の剣が、俺の首へ突きつけられていた。
剣を握っているのは、見知らぬ若い女性だった。
腰まで伸びた銀色の髪と、雪原で見た竜と同じ青銀の瞳を持っている。額の両側には小さな白銀の角があり、白い肌には鱗を思わせる淡い光沢が浮かんでいた。
衣服らしいものは身につけておらず、俺の黒い外套を肩から羽織って体を隠している。竜から人間へ姿を変えた際、服までは用意できなかったのだろう。
状況を理解した俺は、彼女の顔と自分の外套を見比べた。
「その外套、俺が王国から唯一持ち出せた財産なんだけど」
「起きて最初に気にすることが、それなのか。おまえは自分の喉に剣が向けられていると分かっているのか」
「分かっているけれど、助けた直後に殺されるとは思っていなかった。外套まで奪われたうえで殺されるとなると、さすがに少し納得しづらい」
「安心しろ。おまえを殺した後、その外套は遺体へ返してやる」
「思ったより律儀だな。できれば生きているうちに返してほしい」
女性は不機嫌そうに眉を寄せたが、魂から伝わる声は困惑していた。
『どうすればよいのだ。この男は私の正体を知り、魂語まで聞くことができる。帝国の安全を考えれば生かしておけぬのに、命を救われた相手を殺せるはずがない』
どうやら、本気で殺したいわけではないらしい。
少しだけ安心したが、だからといって剣が安全になるわけではなかった。感情と立場が食い違った人間は、時として、自分の望みとは反対の行動を選ぶ。俺は今日、それを嫌というほど思い知らされている。
「あなたがあの白銀竜だということでいいのか」
「そうだ。竜族は十分な魔力を持つ者であれば、人の姿を取ることができる。もっとも、おまえに説明する義務はない」
「俺の外套を着ている理由は理解した。できれば、その剣を少し離してくれると話しやすい」
「許可なく私の魂を読み、竜殺しの鎖を書き換えた人間を、無警戒で自由にできると思うか」
「魂の声が聞こえたことは謝る。でも、あの状況で聞こえなかったことにしていたら、あなたは死んでいた」
「それでも、おまえが私の秘密を知った事実は変わらぬ。魂語は、竜族にとって最も深い場所にある声だ。通常は同族にさえ聞こえず、神殿の誓約でのみ、伴侶となる者同士が触れられるものとされている」
「伴侶?」
「そこだけを拾うな。今の話で重要なのは、おまえが本来聞けるはずのないものを聞いているという点だ」
彼女の頬が、ほんのわずかに赤くなった。
魂の声では、『よりによって伴侶の話までしてしまった。なぜ私は、聞かれてもいない余計なことまで口にしたのだ』と後悔している。
そのことまで指摘すれば、本当に喉を刺されそうなので黙っておいた。
「分かった。それなら、この場で約束する。あなたの魂の声については、誰にも話さない。聞こえた内容を利用して、あなたを脅すこともしない」
「口約束を信じろというのか。人間は条約さえ書き換え、何十年も嘘を真実として語り続けてきた」
「竜族が人間を信用できない事情は分かる。でも、俺をあなたの知っている人間と一緒にしないでくれ。俺だって、人間王国に裏切られたばかりだから、種族だけで同じ側に分類されるのは迷惑だ」
「ならば、おまえは何者なのだ。人間王国に捨てられ、竜帝国にも属していない。帰る場所も、守る国も、信じる仲間もないおまえが、何を基準に敵と味方を決める」
「俺にも分からない。今日までは、怜央たちが仲間で、人間王国が守る側だと思っていた。でも、それが間違いだったなら、これから考え直すしかないだろう。少なくとも、自分を助けてくれた相手へ剣を向ける人を、無条件で味方だと思うほど素直ではない」
「それは……私への非難か」
「半分くらいは。ただ、あなたが困っていることも聞こえているから、残り半分は相談だと思ってくれ」
青銀の瞳が鋭くなり、氷の剣が喉へわずかに食い込んだ。
「やはり、聞こえているのだな」
「隠せと言われても、今のところ方法が分からない。聞こえていないふりならできるけれど、それではあなたが安心できないだろう」
「私が今、何を考えているかも分かるのか」
「俺を生かしておけば帝国の秘密が漏れるかもしれない。でも、助けられた相手を殺したくはない。だいたい、その二つの間で迷っている」
「そこまで分かっていながら、なぜ平然としていられる」
「平然としているように見えるだけだ。剣を突きつけられているし、服を着ていない美人が俺の外套を着て目の前にいるし、どういう顔をすれば失礼にならないのか、さっきからずっと迷っている」
女性は数秒間、俺の言葉の意味を理解できなかったように瞬きをした。
やがて、自分が俺の外套しか身につけていないことを思い出したらしく、耳まで真っ赤になった。
「見るな!」
「目を閉じた状態で剣を突きつけられるほうが怖い。そもそも、俺はちゃんと顔しか見ていない」
「顔も見るな!」
「それでは話ができないだろう。ずいぶん無茶な要求をするな」
『この男は、なぜこういうときだけ正直なのだ。黙って視線を逸らせば済むではないか。いや、それでは私が気にしているように見える。そもそも、この外套は大きすぎて動きづらい。だが、脱ぐわけにもいかぬし……』
「その辺りの悩みは、もう少し元気になってから考えたらどうだ。さっきから剣先が震えている。人の姿になっても、傷と消耗までは消えていないんだろう」
「私の心配をする前に、自分の心配をしろ。おまえは丸一日近く眠っていたのだぞ」
「一日も? それなら、王国軍が探しに来ていてもおかしくないな」
「周囲には私の気配を隠す結界を張った。しかし、長くは保たぬ。だからこそ、おまえをどうするか、今すぐ決めなければならない」
女性は一度目を伏せ、覚悟を決めるように息を吐いた。
氷の剣は俺の喉へ向けられたままだったが、その瞳には、出会ったときほどの敵意は残っていなかった。
「おまえが名乗った以上、私も名を隠し続けるのは公平ではない。私はリシア・ヴァルドレイク。ヴァルドレイク竜帝国を統べる女帝ガルディアの娘にして、第三皇女の地位にある」
「第三皇女……ということは、俺は敵国の皇族を助けたのか」
「そういうことになる。そして私は、おまえが追放されたアストリア王国と、現在も戦争状態にある国の皇女だ。おまえが私を助けた事実が王国へ知られれば、誤訳などという軽い罪では済まぬ。国家反逆者として、必ず命を狙われる」
「もう雪原へ捨てられた後だから、今さら罪が一つ増えても、あまり変わらない気がする」
「変わる。今までのおまえには、どこかの村へ逃げ込み、名を変えて暮らす道も残っていた。しかし、私の秘密と竜殺しの鎖の構造を知った以上、王国も帝国も、おまえを放ってはおかない」
「つまり、あなたが俺を殺さなくても、ほかの誰かが殺しに来るわけか。せっかく鎖から助かったのに、ずいぶん忙しい一日になったな」
「笑い事ではない。おまえが生き残る道は、もはや一つしかない」
リシアは氷の剣を引いた。
ようやく喉元から冷たさが消え、俺はゆっくりと体を起こした。だが、彼女の次の言葉を聞いた瞬間、安心するのは早かったと気づかされた。
「おまえを、私の監視下に置く。拒むのなら、ここで殺すしかない」
口調は冷たかったが、魂からは、それとはまるで違う声が聞こえていた。
『頼むから拒まないでくれ。せっかく助かった命を、今度こそ失いたくない』
俺は黒い外套に包まれた竜皇女を見つめながら、自分が王国を追放されたその日のうちに、敵国の皇族へ拾われてしまったことを、ようやく理解した。
第35話 彼女の言葉が、もうわからないリシアが俺の手を握り、必死に何かを話している。声は聞こえていた。いつもと同じ、少し低くて凛とした声だ。怒っているときは速くなり、心配しているときは語尾がわずかに揺れる。何度も聞いてきた声なのに、いまは意味だけが抜け落ちていた。彼女の唇から流れる竜族の言葉は、知らない音の連なりとして耳へ入ってくる。魂語も聞こえない。表向きの言葉と本音が食い違うたび、どちらへ返事をするべきか悩まされてきた。聞こえなければ楽なのにと思ったことも、一度や二度ではない。けれど実際にすべてが消えると、楽になるどころか、足元が崩れたような恐怖しかなかった。「リシア、何を言ってるんだ。もう一度、ゆっくり話してくれ」俺が日本語で頼んでも、彼女には伝わらない。リシアは眉を寄せ、今度は言葉を区切るように、ゆっくり話した。それでも意味はわからなかった。「無駄だよ」御厨統馬だけが、俺の知っている日本語で話しかけてきた。発音も、言葉の間も自然だった。四百年前の人間とは思えないほど、現代の日本語に近い。俺から奪った万象通訳が、時代による言葉の違いまで埋めているのだろう。「万象通訳は、単語の意味を置き換えるだけの力ではない。相手が何を伝えたいのか、言葉になる前の意思まで読み取り、君が理解できる形へ変換していた。魂語を聞けたのも、その力があったからだ」「返せ」「返す理由がない。これは本来、私の万象宣命を完成させるために作られた力だ。君は器として育てられ、必要な意味を集める役割を果たしたにすぎない」「勝手に役割を決めるな。俺はお前のために誰かの話を聞いてきたんじゃない」「だが、結果として君は私に必要なすべてを集めた。人間の言葉、竜族の言葉、古代魔術の文法、魂へ直接届く声。君が築いた理解の道は、いまや私のものだ」御厨の胸に埋め込まれた銀色の核が強く輝いた。その光へ吸い込まれるように、俺の中に残っていた言葉の感覚がさらに薄れていく。
第34話 「この子は私の心臓だ」と聖王は笑った銀色の鎖がフィーネの胸を貫いた。血は流れなかった。けれど、小さな身体が大きく仰け反り、口から悲鳴がこぼれる。胸元から引き出された銀色の光が鎖を伝い、御厨統馬の身体へ埋め込まれた核へ吸い込まれていく。「フィーネを離せ!」俺は床を蹴り、御厨へ飛びかかった。戦い方など知らない。剣も持っていない。それでも目の前で妹同然の少女を奪われて、通訳だから後ろにいるべきだと考えられるほど冷静ではなかった。伸ばした指先がフィーネへ届く直前、見えない壁に身体を弾かれた。胸を殴られたような衝撃が走り、俺は床を転がる。息ができずに咳き込んでいると、御厨が俺を見下ろした。「相変わらず、自分にできないことを考えずに動く。君には戦う力がないと、何度も教えられたはずだろう」「できるかどうか考えてる間に、フィーネが消える。だったら失敗しても動いたほうがましだ」「その結果、君まで倒れれば、仲間に負担を増やすだけだ」「正論を言えば、子供を苦しめてることが正しくなると思うな」起き上がろうとした俺の前へ、リシアが立った。彼女は俺を守りながら、御厨と腕の中にいるフィーネを見つめている。「その子を返せ。フィーネは始祖竜の心臓などではない。私の妹だ」「お前が勝手に家族と呼んでいるだけだ。この子が生まれるよりはるか以前から、始祖竜の核は私の中にある」御厨は自分の胸へ触れた。竜の骨で作られた王衣の隙間から、銀色の核が見える。それは心臓のように規則正しく動いていたが、鼓動するたび、御厨の胸から黒いひびが全身へ伸びていく。核がなければ、四百年を生きた身体は一瞬で崩れてしまうのだろう。「四百年前、私は始祖竜の名前を手に入れた。だが、その力のすべてを支配できたわけではない。心臓に残っていた意思が、私へ従うことを拒んだからだ」御厨がフィーネの髪を撫でた。少女は苦しそうに顔を歪め、逃れようと身体を動かし
第33話 二人の皇太子、消えるのはどちらか黒い光が二人のアルベルトを飲み込み、始祖宮の大広間を激しく揺らした。床に刻まれた術式から何百本もの光が立ち上がり、二つの身体を糸のようにほどいていく。罪悪感を抱えた本来のアルベルトと、国を救うという目的だけを残したもう一人のアルベルトは、光の中で混ざり合い、やがて一つの人影へ戻った。黒い光が収まる。そこに立っていたのは、たった一人のアルベルトだった。髪も瞳も、リシアと同じ竜族皇室の色を取り戻している。身体を覆っていた傷も消え、服装も皇太子の正装へ変わっていた。外見だけを見れば、分裂する前の完全な第一皇子に見える。「お兄様」リシアが呼びかけた。アルベルトはゆっくり妹へ顔を向けたが、その目に懐かしさはなかった。「その呼び方は、いまの私には必要ない。国を救うために不要な関係は、すべて整理する」リシアの表情が凍りつく。「では、残ったのは……」「目的を持つ私だ。罪悪感に支配され、自ら消えることを望んでいた弱い半身は吸収した。これで私は完全な皇太子となった」アルベルトは始祖炉へ手を向けた。炉を囲む黒い鎖が一斉に脈打ち、皇都中から集めた名前をさらに強く吸い上げ始める。大広間の壁に、街の様子が映し出された。道を歩いていた竜族たちが次々と膝をつき、自分の名前を思い出せなくなっている。親が子供を呼ぼうとしても声が出ず、兵士たちは所属も守るべき相手も忘れ、始祖宮の命令だけを待つ人形へ変わろうとしていた。「やめろ!」リシアが兄へ飛びかかった。アルベルトは片手を振っただけで、彼女を弾き飛ばした。アレクシオが倒れかけたリシアを受け止め、俺はアルベルトの前へ走った。「本当に、もう一人は消えたのか」「彼は自分で望んだ。国を救うために消えられることを、最後まで喜んでいた」「それは答えになってない。俺が聞いているのは、完全に消えたのかどうかだ」
第32話 恋敵の竜公爵は、俺を殺したくない炎をまとった竜の爪が、俺の首へ振り下ろされた。避けられない。そう思った瞬間、銀白の影が目の前へ飛び込んだ。リシアは光の枷が残る両腕を持ち上げ、アレクシオの爪を正面から受け止めた。赤い炎と銀白の炎が衝突し、始祖宮の大広間を揺らす爆風が巻き起こる。「リシア、どけ!」アレクシオが苦痛に顔を歪めた。「この身体は、遥人を殺すまで止まらない。お前を傷つけるなという命令は受けているが、攻撃を邪魔する者まで無事で済む保証はない!」「ならば、なおさら退けない。私の婚約者を殺させるわけにはいかないし、私のためにお前が人を殺すところも見たくない」「そういう言い方をするな。まるで私が、お前への未練で人間を襲っているようではないか」「違うのか?」リシアが問い返すと、アレクシオは一瞬だけ言葉を失った。その隙にも命令は彼の身体を動かし、竜の爪がリシアを押し込んでいく。床の石がひび割れ、リシアの靴が後方へ滑った。彼女は魔王の紋章によって力を奪われているうえ、両手には俺がつけた光の枷まで残っている。「リシア、その枷を外す!」「最初から外しておけ!」俺が勇者の紋章へ意識を向けると、光の枷が消えた。自由になったリシアはアレクシオの腕を外側へ受け流し、そのまま俺の襟をつかんで後方へ放り投げた。「乱暴すぎるだろ!」「首を刎ねられるよりはましだ。文句は生き延びてから聞く!」床を転がった俺のすぐ横へ、アレクシオの炎が突き刺さった。石床が溶け、赤く泡立つ。あと少しリシアに投げられる力が弱ければ、俺は首どころか上半身を焼かれていた。「悪いが、次は外せそうにない!」アレクシオは自分の腕を止めようと、反対の手で押さえ込んでいる。それでも黒い鎖は容赦なく彼を引きずり、俺との距離を縮めてきた。リシアが再び間へ入ろうとすると、床から何本もの鎖が伸び、彼女の翼と両足へ巻き
第31話 婚約を解消すると彼女は告げた『今度こそ、私が遥人を捨てなければならない』リシアの魂語は、驚くほど静かだった。泣き叫ぶ声よりも、その静けさのほうが怖かった。彼女は迷いを消したのではない。迷ってしまえば決断できなくなるから、自分の感情を切り捨てようとしている。俺が握った左手は冷たく、二本の銀線も弱々しく明滅していた。「一時間以内に皇都へ行き、俺との真銀の環を断ち切るつもりか」俺が尋ねると、リシアはわずかに眉を動かした。「人の考えを勝手に聞くなと、以前にも言ったはずだ」「聞きたくて聞いたわけじゃない。それに、口に出さず一人で決めようとするから、魂語を聞くしかないんだ」「ならば、いま口に出して伝える。遥人、私たちの婚約を解消する」広場に残っていたざわめきが消えた。処刑台の上にいるカナタも、怜央を支えていたロランも、俺たちを見つめている。リシアは俺の手を振りほどき、鐘の操作盤へ歩み寄った。魔王の印に侵食された身体は、まだ本来の力を取り戻していない。それでも背筋を伸ばし、竜帝国の皇女として、世界中へ届く声で宣言した。「竜帝国第三皇女リシア・ヴァルドレイクは、如月遥人との婚約を、この場をもって解消する。真銀の環を断ち、今後は互いの人生に干渉しない。これは私自身の意思であり、誰かに命じられたものではない」完璧に整えられた文章だった。皇族が正式な契約を解消するときの文言を使い、誰にも異議を挟ませない声で言い切っている。しかし、俺とリシアの薬指に残る銀線は消えなかった。二本の線は震えながらも、互いを選んだときの形を保っている。竜帝国皇都から届く、もう一人のアルベルトの声が低く笑った。『言葉だけでは不十分だ、リシア。真銀の環は、王家の契約書より正直だ。お前は婚約を解消すると口にしながら、心の中では人間を手放していない』「私が何を考えているかは関係ない。契約は言葉によって成立し、言葉によって解消される」『かつての偽装婚約ならば、
第30話 婚約者を殺せという命令を、俺は訳し直した聖剣が、リシアの心臓へ向かって振り下ろされた。止めようとしても右腕は動かない。勇者となった者は、魔王を討たなければならない。黄金色の命令が筋肉だけでなく、神経や骨にまで食い込み、俺の意思とは関係なく剣を加速させていく。リシアは逃げなかった。刃が迫っているのに、俺へ差し出した左手を引こうともしない。黄金の瞳には恐怖があったが、それ以上に、俺への信頼があった。『遥人なら止める。もし止められなくても、最後まで私を私として見てくれる』その魂語を聞いた瞬間、胸の奥から怒りが込み上げた。俺が失敗しても受け入れるなど、勝手に決めるな。父と話したばかりなのに、今度は婚約者へ何も言えないまま別れるつもりなどない。剣を止められないなら、命令の意味を変える。御厨統馬が俺へ与えた命令は、「リシア・ヴァルドレイクを殺せ」ではなかった。魔王リシア・ヴァルドレイクを討て。魔王という言葉は、彼女が生まれたときから持っていた名前ではない。御厨が世界中の恐怖を集め、あとから無理やり貼りつけた役割だ。討つべき対象は、リシア本人ではなくてもいい。「万象通訳。命令の目的語を再解釈する」俺はリシアから目をそらさず、黄金色の文章へ自分の意思を差し込んだ。「俺が討つのはリシア・ヴァルドレイクではない。この女に押しつけられた、魔王という役割だけだ!」聖剣がリシアの胸へ突き刺さった。広場から悲鳴が上がり、フィーネが俺たちの名前を叫ぶ。しかし、銀色の刃はリシアの身体を傷つけていなかった。剣先は胸元の黒い紋章へ沈み込み、その下にある服にも肌にも触れず、魔王という意味だけを貫いている。リシアは苦痛に顔を歪めたが、俺の手を離さなかった。「ずいぶん乱暴な助け方だな。あと少し解釈を間違えていたら、本当に私の心臓を貫いていたぞ」「俺だって好きでやったわけじゃない。文句なら御厨に言って







